『映画監督、全てをさばく』
監督「映画とは総合芸術です。1本の映画には膨大な人数の大人が関わっている。そんな彼らをまとめるのが私のような映画監督の仕事です。……なんて言うとまるでリーダーのように聞こえますが、実態はまるで違います。大人の事情で監督でも逆らえない相手というのもいるんです。つい先日も主演男優がこんな厄介なことを言い出しまして……」
男優「監督チャ~ン、俺降板しようかな。本当はスケジュール的にこんな映画出てる場合じゃないんだよね。ヒロイン役があの女優だって言うから一応引き受けたけどさ」
監督「彼はスポンサーの強い要望を受けてキャスティングした役者でした。彼を失うことはスポンサーを失うのと同義です。……私が監督に抜擢されたのはこういうトラブル時の調整力を買われてのもの。私は彼を必死に引き止めました」
男優「じゃあさ、何か1つ俺のわがまま聞いてくんない?」
監督「わがまま……?」
男優「脚本ザッと目通したけどさ、なんか俺の役って恋愛映画の主役の割に陰湿で地味じゃない?もっと俺がカッコ良く見えるわかりやすいシーン増やしてよ」
監督「私はいつかこいつを痛い目に合わせてやると決意しつつも、彼の希望を受け入れました。となると次は脚本家の先生との交渉になります。天才と持て囃され国際的な賞も取っている大御所です」
先生「あなたねえ、今回のコンセプトは人間の醜い部分を徹底的に描くことで逆説的に人間の美を炙り出すってものなの。だから俳優の彼をカッコ良く見せるシーンなんてノイズにしかならないの。私の作品性、伝わってなかったかしら?」
監督「先生は天才ゆえにこだわりが強く、交渉は難航しました。しかしこのままだとあの俳優が降板し、映画の製作自体が中止になりかねません。私はとにかく先生に頭を下げました。すると……」
先生「……仕方ないわね。書き換えてもいいけど、私のわがままも1つ通させて」
監督「な、何でしょう?」
先生「本当はつけたかったタイトルがあるの。主人公の、人間の醜さを的確に表現できる最高のタイトルがね。商業的ではないから遠慮してたけど、それを採用してほしい」
監督「どんなタイトルでしょう?」
先生「『二度と風呂には入らない!』よ」
監督「とんでもないことを言い出しました。こいつ天才ぶってるけどただの頭がおかしい奴なんじゃないでしょうか。恋愛映画の主役が風呂に入らないキャラだなんて斬新すぎます」
監督「しかし要求を飲まなければ降板するという圧を感じたので、私は承諾せざるを得ませんでした。タイトル変更となるとプロデューサーの許可を取らねばなりません」
プロデューサー「何言ってんの!?頭おかしいんじゃない!?」
監督「で、ですが先生が……」
プロデューサー「風呂に入らないキャラを演じてカッコ良く見えるわけなくない!?」
監督「おっしゃる通りなんですが……」
プロデューサー「ポスターとかどうなるの?あの俳優の顔前面に出してその横に『二度と風呂には入らない!』って印刷すんの?それもうポスターじゃなくて中傷ビラじゃない?」
監督「ぐうの音も出ませんでした。しかし彼がタイトル変更を受け入れてくれない限り、もはやこの映画は製作できないのです。私はここまでの経緯を説明しました」
プロデューサー「……そういうことか。じゃあこうしよう。タイトルを変える代わりに、俺にも1つわがままを言わせてもらおう」
監督「はぁ……」
プロデューサー「俺がよく行く店の明美って女の子が映画とか興味あるみたいでね。主演女優に使ってやってくんない?大丈夫!めちゃくちゃ美人だから!それに頭も良いんだよ!ファイナンシャルプランナーの資格とか持っててさ!」
監督「彼は嬉々として明美とかいう女の魅力を語り始めました。流石にこの要求は受け入れられませんでした。しかし、プロデューサーの口から気になる一言を飛び出たのです」
プロデューサー「その店っていうのがチンパンジー居酒屋っていうんだけどさ。チンパンジーが店員やってて」
監督「……ってことは、明美さんは?」
プロデューサー「チンパンジー」
監督「明美はチンパンジーでした!私は恐ろしくてたまりませんでした。彼がメスチンパンジーにどハマりしていることも、嬉々として明美の説明をするその笑顔も、明美がファイナンシャルプランナーの資格を持っていることも、心の底から恐ろしかったのです」
監督「……3人のわがままを聞いた結果、とんでもないことになってしまいました。しかしここからが私の調整力の見せ所。今度はあの主演男優の元へ向かいました。彼は元々の主演女優との共演が目当てで出演を決めたのですから」
男優「は!?ヒロイン役が交代!?誰になんの!?」
監督「……プロデューサーがスカウトした方だよ。素人さんだけど、なんでも種族の壁すら超えてやられてしまうほどの美人で、しかも超天才だとか」
監督「私は肝心なことを言いませんでしたが嘘はついていません。主演男優の彼は納得はしていないようでしたが、私の説明を聞いて多少の興味を持ったようです。そして、何か良いことを思いついたかのようにニヤリと笑いました」
男優「……素人さんってことは事務所入ってないんだよね?事務所NGのシーンとかないってことだよね?」
監督「う、うん。まあ……」
男優「じゃあさ、俺とその子の濃厚なキスシーン作ってよ」
監督「どうぞどうぞ!私はこれに関しては快諾しました。撮影が楽しみになってきたくらいです。私は張り切って脚本家の先生の元へ向かいました。当然ヒロインがチンパンジーになったことは内緒です」
先生「キスシーン?あのね、前にも言ったけど私はこの映画でそんな美しいシーンは描きたくないの」
監督「むしろグロテスクなシーンになるとは思いましたがややこしくなりそうなので黙っていました」
先生「いい?私は人間の深淵を映し出したいの。人間の奥底にある醜さ、それを通じて人間の真の美しさを描く。人間!とにかく人間なの!」
監督「先生が『人間』と言うたびに笑いそうになりましたが、私は必死で真剣な顔を保って懇願し続けました」
先生「……仕方ないわね。それじゃあもう1つ私のわがままを聞いて。主題歌のタイトルを『ドブをゴクゴク飲んじゃうぜ!』に変更よ」
監督「天才とバカは紙一重と言いますが、多分こいつはシンプルにバカだと思いました。しかし、私はあえて快諾しました。キスシーンのバックで流しましょう」
監督「私は最後にプロデューサーの元に向かいました。主題歌タイトルの変更も彼の許可が必要です。最愛の明美の唇を主演男優に奪われることは伏せておきつつ、私は頼み込みました」
プロデューサー「あの先生はいよいよ気が狂ってるね!」
監督「それは私も同意ですが、チンパンジーにどハマりして映画にねじこむ奴には言われたくないでしょう」
プロデューサー「そういうことなら俺のわがままももう1つ聞いてくれよ。元々の主演女優のギャラに使うはずだった予算あるじゃん?それを明美の衣装代にしてくんない?」
監督「意外にも軽い要求に拍子抜けしました。私はオートクチュールの最高のドレスで明美を着飾ってみせると確約しました。そうなると特注のサイズが必要になるでしょう」
プロデューサー「あ、既製品で大丈夫だと思うよ。明美身長260cmあるから」
監督「明美は想像より3倍は大きいチンパンジーでした!キスシーンというより捕食シーンになりかねません」
監督「……まあ、もはやそんなことはどうでもいいのです。2周目からの私は、むしろこの映画をぶち壊す方向で動いていました。三者のわがままをすり合わせた結果、今やこの映画は、風呂に入らない男のカッコ良いシーンをふんだんに盛り込みながら、最終的には着飾った巨大チンパンジーと濃厚なキスを繰り広げ、その背後で主題歌『ドブをゴクゴク飲んじゃうぜ!』が流れるという、衝撃的な映像になることが決まったのです」
監督「明日ついに撮影開始です。最初に撮るのは奇しくもキスシーンです。プロデューサーがドヤ顔で連れてくるであろう明美を見て、さぞ現場は凍りつくでしょう。そして……私の見事な調整力のおかげで、この映画を制作中止にするという決断に、全員を同意させることができるのです」